ギリシャ神話の有名な逸話にエロースとプシュケのお話というのがあります。
美の女神アフロディテの息子・エロースは、その美しさを誉めそやされている人間の娘プシュケを懲らしめろと母から言われたのに、逆に自分が彼女に恋をしてしまい、母がプシュケを様々な難問により試したり苦しめたりするのを陰ながら助けてやります。どんな苦難にも耐え抜いた彼女が、されど好奇心から命を落としそうになったのをも救ってやったエロースは、他の神々にも協力を仰いで母を説得。やっとのことで結ばれて、愛らしい娘が生まれるというお話なのですが、この逸話の有名な下りが、プシュケが夫の寝顔をそおと覗く場面。
女神からの呪いによって誰からも求婚されない身となったプシュケは、山の頂上に住む怪物と結ばれる運命にあるという神託を受け、泣く泣く西風に運ばれて向かった宮殿で、不思議な生活を送ることとなります。瀟洒な宮殿には、着るものも食べ物も様々に、それは贅を尽くしたものが揃えられており、姿なき声だけの従者たちにかしづかれ、何不自由ない生活を送ります。世にも恐ろしい怪物の夫というのは、ですが、プシュケの前には夜になってから訪れて、朝がくる前に去ってしまう存在。明かりを灯すことも許されず、一向にその姿を見せてはくれません。他には人の姿もない城、人恋しくなったプシュケはそれを夫へと訴え、姉たちを招待してもいいとの許可を得ますが、彼女らは妹がそれは贅沢に暮らしていることを妬み、姿を見せない夫の正体はあなたを太らせて食べようとしている蛇かも知れぬとそそのかし、今宵また夫が訪のうたら、こっそり明かりを灯して正体を暴き、その首を落としてやれ…などとけしかけます。もともと好奇心が旺盛でもあったプシュケは、姉たちが帰った後、こっそりと燭台とナイフを寝室へと隠しておき、やがて夜の帳とともに訪れた夫が寝付いたころを見計らい、燭台にロウソクを灯すとその寝顔を覗き込むのですが、
「………。」
ロウソクの明かりに浮かび上がったは、絹糸のようにしっとりとつややかな黄金の巻き毛。それが真っ白な額と緋の散る頬に寝乱れていて、肩には雪よりも白い翼が二枚、春の花のように艶やかに咲き誇る、何とも美しい神様ではありませんか。そのあまりの美しさに吸い寄せられ、もっとよく見ようと燭台を近づけたプシュケでしたが、近づけ過ぎた燭台から落ちたロウの熱さが肩に触れ、夫は跳ね起き、自分との約束を破ったプシュケを罵ります。そう、彼はエロースで、お前は私との約束よりも姉たちの言うことの方が大事なのだなと、罰は与えぬがもう二度と逢うこともなかろうと、怒ったそのまま姿を消してしまうのです。
「…。」
冒険譚とか戦さのお話とか、神話にもいろいろあるってのに。選りにもよってどこか少女趣味な傾向の強いそんなお話を、何で今、思い出してしまったのかなと。頭ではそんな風に、変だなぁなんて思いつつ、でも。
「…。」
でも、心のどこかでは納得してもいる。だって今、丁度その娘さんと同じ立場と心境にあるセナなのだもの。
“気持ち良さそうだなぁ…。”
セナが大好きな進さんは、セナの通う泥門高校からは少し遠い“王城高校”の上級生で。双方とも毎日のように厳しい練習に身を置いていることもあって、そうそう一緒になんて居られない。大好きなアメフトのためだと、そこのところは納得づく。そんな中から何とか算段した隙間のような僅かな時間を、それでもいいからと共に過ごすのが、今のところは…身も心も蕩かすような至福のひとときであり。そんなして機会をこしらえた、静かな静かなとある早朝。
「…。」
陽射しは既に初夏の趣き。暖かいどころか目映いばかりとなっていたそんな中だが、それでも吹きわたる風は爽やかで。毎朝の習慣になっているランニング。双方ともがそのままのコースを真っ直ぐ走り続けたならば、何と同じルートの端と端を走っていることになると判ったものだから。お互いの家を出発点とし、その中間点で出会うという、可愛らしいんだか焦れったいんだかな逢瀬をするようになって、もうどのくらいとなるものか。まだまだどうしても進さんの方がペースは速いし、体格差や歩幅の差もあってのこと。到底“中間点”とは呼べないほど、セナの家寄りのところで出会う二人であったりし。汗を拭ったり水分補給をしたりという、インターバルにと腰掛けた川べりの土手で、ふっと気がつけば…横になってたその人が、分厚い胸をゆったりと上下させてうたた寝しているではないかいな。
『〜〜〜〜〜っ!////////』
他愛ないことを話していたのへのお返事がなくなり、あれれぇと見やったその先で、目許を伏せてのそれは静かなお顔になっている進さんが、すやすやと穏やかに眠っているのだと判ったその途端。まずは“どうしよう〜〜〜っ!”とひとしきり焦ってしまったセナだったのだが。
『お、起こした方がいいのかな。だって…汗、そう、汗を冷やしたら大変だし。それにせっかく体が温まっていたのに、それが無駄になっちゃうんじゃないのかな。ペースとか何とかも狂って来ちゃうんじゃないのかな。第一、ここから引き返さなきゃいけない進さんなんだしね。ボクんちはすぐの近いから構わないけど。ガッコだってほんのすぐ傍だから、まだまだ十分間に合うけれど、進さんはそうは行かないんじゃないのかな。校則だって厳しそうな厳格なガッコみたいだし、何よりアメフト部の監督が厳しい人みたいだし。えっとえっと〜〜〜〜〜。』
そんなこんなでパニックしかかったその割に、
「…。」
揺すって起こそうなんてこと、結局は出来なかったセナだったのは。あんまり気持ち良さそうに、穏やかな寝息を立ててた進さんだったのと…それからね?
“こんなお顔して…。”
そういえば。進さんのお顔、間近で見たことってなかったなぁと。こんなときに気づいてしまったセナくんだったから。だって日頃だと、こっちを向いてる進さんだってことは、あの涼やかな双眸がこちらを見やっているってことでもあって。濃い榛色のそりゃあ冴えた眼差しが綺麗で綺麗で…それへと見とれるか、はたまた、はっと我に返って恥ずかしくなっちゃうか。とてもじゃないけど、進さんのお顔をまじまじ見つめるなんて出来やしない。だから、気がつけば横顔しか知らないなぁなんて、こっそり撮った写メの、これもやっぱり横顔の進さんを眺めてて“そうなんだ”って気がついたばかり。だから、進さんが眠ってる今…その眸が伏せられている今こそ、じぃっと見つめるチャンスだって思えてしまったセナくんで。
「…。」
柔らかな下生えが伸びているただ中に、無造作に寝転んだまんまな進さんは。目許が閉じられているせいか、何かしら考えごとでもしているかのような表情にも見えて。こんなときにも緩まないんだなって、それへもちょっぴり感心しちゃって。
「…。」
ちょっぴり伸びた前髪が、額へ陰を落としているけど。横になっている分だけ脇へと流れてて、お顔が随分とあらわになってもいる。もうすっかりと大人びた、彫の深いお顔は精悍で、男としてこうありたいという雄々しさや頼もしさを全て揃えてのその上へ、清涼端正、凛と整った“綺麗”まで備えてて。お鼻の峰も通っているし、頬の線が少ぉし鋭いのは頬骨が立っているからだろな。ボクなんてまだふにゃふにゃ柔らかいまんまなのにね。伏せられたまぶたの縁、少し深くて。見ていて何だかドキドキするのは、いつ開くか判らないからだろか。でもね、本を読んでたりして伏し目がちになってるときの進さんて、とっても物静かで。何てのかな、試合中の鋭さとは種類の違う、とっても澄んだ気配になっちゃうのがやっぱり大人びて見えて、それはそれは素敵なんだよ?
「…あ。」
そうだ、いつもはあの快速が鉄橋を渡ってくの見て、じゃあってお別れしてるんだった。えっとえっと、進さん、起きなきゃダメですよう。進さん、起きて下さいよう。…ああ、こんな小さい声じゃ聞こえないかな。
「…進さん、起きて下さい。」
「………。」
「進さん、遅刻しちゃいますよう。」
「………。」
ああ、まだダメなのかな。聞こえないのかな。でも、今さっきこっち見ながら通ってったお姉さん。何か肩が震えてなかったか? 風とかの関係なのかなぁ? 耳元近くに草が生えてるから遮られちゃうのかなぁ。もうちょこっとお顔を近づけて、お胸へも手を載せての そろぉっと揺すって。
「進さん、起きて下さい。」
「………。」
あああ、どうしたら。こんな気持ち良さそうなお顔で寝てるもんだから、それを起こすだなんて何だか悪いことしてるみたいで。それで腰が引けちゃっているのかな。お顔を寄せれば、草いきれに混じって汗の匂いとそれから、いかにも男の人っていう精悍な匂いがして来たりして…。
「〜〜〜。///////」
ああああ、赤くなってる場合じゃないってのに。どうしよどうしよと困っていると、そんな手をいつの間にやら掴まれており、
「どうした?」
「〜〜〜っっ!!/////////」
こんな間近で瞳を開いた進さんだってことへ。きゃあきゃあきゃあと、その胸の裡うちにて大慌てで駆け回っている小人のセナくんたちのか細い悲鳴やパニック振りを、何とか押し止めて表へ出さなかったのは、さすがに…ご近所の目があったのを忘れなかったからだけど。
「すまんな。あんまり気持ちがよかったので。」
「あ、えと、そうですよね。草の上ってヒヤッとしてますもんね。」
それで眠っちゃったのですよねと、ドキドキを静めつつ無難なお返事を返していたらば。進さんの大きな手が、ぽふぽふって髪を撫でてくれて。
「それもあったが、小早川の声が。」
「………はい?」
起きて起きてと囁かれていた、まだどこかトーンの高いままなそのお声が、何とも気持ちよかったものだから。
「もう少し聞いていたくてな。」
「…っ!!/////////」
もうもうなんでこの人はっ。しれっとそんな簡単に、女の子にでも言ってやればいいような、ドキドキするよな言いようを、思わぬタイミングで零してくれるのだろうかと。
「…小早川?」
耳まで真っ赤になったセナくんを、案じる声まで罪作りな甘さなのは、
“反則ですよ〜〜〜っ。////////”
あやや、こんなにドキドキしてちゃあ、朝の練習でまた上の空になりかねない。そしたら蛭魔さんからどやされちゃうと、そんなことまで心配しているところは…案外冷静かもしれない、希代のランニングバッカーくんだったりするのでありました。
〜どさくさどっとはらい〜 07.5.08.(up.07.6.26.)
*途中から“こんのバカップルが〜〜〜っ”と無性に腹が立ってしまって、
没にしてしまった作品でしたが、
別にこのくらいは今更じゃないかと(笑)、
思い直してのサルベージでございます。
そんなして書き直した方だって、大差無い出来でしたしね。(大笑)
*お相手がうたた寝しているところをこそり覗き込むというシチュは、
実は大々々々好物でしてvv
だって、向こうからの視線も意識もないまま、
無防備なお顔を見たい放題ですぜ?お客さん。(こらこら)
ただし、あちこち緩み倒して情けない顔になってる場合もありますので、
お腹掻いてる姿も可愛いと思えるくらい、
アツアツでラブラブの時に限りますね、うん。(苦笑)
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めるふぉvv *

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